予言について (1)

 Nさんの陳述書は、その大部分をワールドメイトの予言への批評に費やしています。つまり「深見教祖の予言は外れている」と。

もっとも、Nさんが「外れている」と主張する根拠自体が、曖昧だったり、前提事実を間違って解釈しているものが多いのが特徴です。また、ワールドメイト側が指摘しているように、深見先生が発言していないことまで、Nさんの勘違いで記載しているものすらあります。また、Nさんは、ワールドメイトの膨大な予言のうち、ほんの少しを取り上げて、外れたかのような解釈を付けているに過ぎませんが、その他ほとんどの予言については、文句のつけようがなかったのか、触れてすらいません。

 

ワールドメイト側は、こうしたNさんの論難に対し、真っ向から反論し、詳細な証拠と事実をあげて論破しています。双方を比較すると自ずから、Nさんの誤認が浮き彫りになってくるのです。

 

 

 

==========以下、引用==========

 

 当教団では、予言とは「このままいけば、このようになる」というもので、予言は変わるものであると断言しています。予言された未来は、蓋然性の高い一可能性に過ぎません。未来に起こりうる事柄の原因は、現在、あるいは過去にあります。それゆえ、現在の努力によって、未来も当然変わると考えるのです。

 当教団では、未来は全て神によって決定されているとは考えません。アウトラインは神仕組によって決められているものの、現在における私たちの努力で、未来はいくらでも変わるものなのです。このような因果律の存在を前提にしているからこそ、日々精進努力して世のため、人のためになる人材たるべく己を磨き、人々の幸せをひたすらに神に祈るのです。

 なればこそ、「未来はこうなる」といった予言が出され、その予言が結果として人々を不幸にする種類のものであるならば、必死で祈り、改善のための努力を惜しまず、悪しき予言が成就しないことを喜ぶべきなのではないでしょうか。また良き未来図が予言されても、それによって本人が全く努力しなかったら、未来は悪い方へと変わってしまいます。また、せっかく神仏に祈って良い方へ切り替わった未来も、その後神仏の御心に沿う生き方から外れていけば、未来も元のように戻ってしまいます。(ワールドメイト陳述書① 16頁)

 

==========引用終わり==========

 

 

 

そもそも、ワールドメイトが行う神事では、悪い予言が外れてより良い将来となるようにという主旨で行う場合もあります。予言は、警告の一種であり、その後の努力と愛の祈りなど、神への誠を示すことにより、変えられるものであることを、会員なら誰でも実感しているはずです。Nさんは、そうした予言の原則を知っているに違いないのですが、あえて、触れていないのです。

 

予言について (2)

 ワールドメイトでの予言は、決定論でも予定論でもありません。では、なぜ「予言」が出されるのでしょうか?

 悲観的な終末論の対極にあり、より幸せな人々の未来のみを志向する、ワールドメイトの真骨頂がそこにあります。

 

 

 

==========以下、引用==========

 

 このように、未来は変わるものであり、悪しき予言は外す工夫をする。それが当教団における、予言の基本的考え方です。この基本的な予言に対する物の考え方を示すために、深見教祖は、中国で明代に袁了凡によって書かれた『陰隲録』を、講義や著作等で度々引用しています。その内容は、「袁了凡は、当代随一と言われた易の大家の示す予言がことごとく的中したために、すっかり未来は全て予定されていると、運命論者になっていた。その袁了凡に、雲谷禅師が喝を入れ、陰徳を積むことで全ての未来が吉に変わることを諌めた。雲谷禅師は陰徳の得点表を作り、その通りに実行した袁了凡は、予言されていた内容がだんだん外れるようになり、寿命も予言より数十年延び、予言では出来ないはずだった子供もできたことを喜んだ。そして、陰徳(人に知られない善行によってできる)を積むことで、運命は変えられることを確信して、多くの人に勧めた」というもので、その結果、多くの人が幸せになったという実録がこの本なのです。

    この『陰隲録』は深見教祖の愛読書であり、著作の中で何度も紹介され、講義の中でも何度も言われているので、普通の会員なら誰でも知っているはずです。

(ワールドメイト陳述書① 16頁)

 

 最も大切なことは、人間が世の中の改善のための実際的努力を惜しまず、さらに善行を実行して徳を積み、自分も家も命運を改善して幸せになり、さらに神仏の応援を受けて、理想的な世の中を建設していくことだと私たちは考えます。そのためには、ひたすらに人々の幸せを神に祈り、神仏に捧げる法施、体施、物施の誠を行じて、自分の命運を改善しつつ、まず自らを救い、『大学』にもある「修身・斉家・治国・平天下」の順番で、世界中の人々を幸せにする偉大な神力を発揮していただくことこそを、願うべきでありましょう。当教団が決してアテ物などを売りにせず、社会や人々が少しでも良くなることを喜び、その努力を惜しまないのはそのためです。

 Nさんが深見教祖を虚言家であると断罪するのは自由ですが、その論拠が単なる「予言が当たった、外れた」という種類のものであることは残念です。 (ワールドメイト陳述書① 17頁)

 

==========引用終わり==========

 

 

 

 圧巻です。論理明快であり、奥深く、かつ明るく前向きな宗教観が展開されています。この前提を抜きにしては、ワールドメイトの活動は説明できないと思います。

 

予言について (3)

 ところで、予言の一部を自己流解釈して、Nさんが攻撃することについて、ワールドメイト側は正面から反論しています。まずは、「それが裁判の争点たり得るか?」という、根本的な問いかけです。

 

 

 

==========以下、引用==========

 

 Nさんの陳述書(※)の8頁から47頁にかけて、膨大な紙幅を費やして、「予言がことごとく外れ」ていると指摘し、それをもって深見教祖が「人並みの見識や判断力、常識さえ持たない虚言家」であると断罪しています。

 実際には、Nさんの主張はこじつけというもので、「予言がことごとく外れ」は誤っています。代表的な実例については後述するとおりです。

 しかしながら、最初に申し上げておきたいのは、そもそも予言が当たっていたか、外れていたかという問題が、裁判の争点たりうるかということです。

 

 Nさんが、深見教祖の予言を自分なりに解釈し「これはこう間違っている」と論難するのは勝手です。しかし陳述書の大半を費やして、予言が外れたから正しい宗教ではないが如き主張を、裁判の場で論証しようとする意図は全く理解できません。

(ワールドメイト陳述書① 1516頁)

 

  Nさんがどのような解釈をされようと自由ではあります。しかしながら、あくまで当教団の教義、教学に即して考えるならば、Nさんの解釈は一面的で皮相であり、非常に浅いといわざるを得ません。むしろ、こじつけや牽強付会な解釈をしているのはNさんであり、深見教祖の予言を冷静かつ客観的に解釈するならば、悉く的中し、かつそれが良い方に改善されており、Nさんの主張は全く誤っていると考えます。

 もちろん、予言の適否が裁判の争点足り得るものとは考えませんが、これは別に機会を改めて、詳細な指摘をさせていただきます。ただし、特に看過できないものについては、本書面の次項以降に記しました。Nさんの主張が全く誤っていることがお分かりいただけると存じます。

 

==========引用終わり==========

 

 

 

 神事で祈りを捧げたり、我がことを離れて人形形代を書いたり、大勢の会員が「神への誠」を示すことによって、「危ないところを救われた」というふうに、良い方向へ未来が改善させる…そうやって、未来も予言も変わっていくことを会員はよく知っています。未来のことは努力により変わるということでなければ、努力する意味もないのではと思います。Nさんの主張は、そういう点を意図的に無視して展開しており、いかに誤っているかがよくわかります。